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第70回濱口梧陵と3つの「防」

リスク政策

千葉科学大学危機管理学部危機管理システム学科

佐々淳行氏は、国家が取り組むべき危機管理の範疇として、「防衛」「防災」「防犯」「防疫」を挙げています(「口蹄疫で見た情けない危機管理」、産経新聞2010年5月27日)。これらの4つの「防」のうち、3つの「防」に取り組んだ人物がいます。濱口梧陵です。濱口梧陵は、1820年、紀州の広村(現在の和歌山県広川町)で生まれました。濱口家は、1645年から江戸と銚子で醤油醸造業を営み、現在も銚子に本社がある「ヤマサ醤油」として経営を続けています。梧陵は、実業家として偉大なだけでなく、3つの「防」(防災、防疫、防衛)の面でも優れた功績をあげた人物です。

まず、1つ目の「防」である「防災」についてです。梧陵が広村に戻っていた1854年12月、安政東海地震が発生し、大きな揺れが広村を襲いました。梧陵と村人たちは、津波を警戒して広八幡神社に避難して、一夜を明かしました。翌日、安政南海地震の大きな揺れが広村を再び襲いました。梧陵は、津波の襲来を予見して、村の人々に逃げるように伝えていたところ、津波に襲われて半身を波にさらわれながら、かろうじて広八幡神社まで退きました。日が暮れて暗くなると、梧陵は、崇義団(後述)の青年達とともに、逃げ遅れた人々の捜索に出かけました。逃げる人たちの目印にと稲わらに火をつけて、人々を高台へと導きました。この話は、津波防災の分野では「稲むらの火」としてとても有名です。

梧陵は、津波から避難した後、炊き出しや被災者用の小屋の建設、農耕具・漁具の配給などの救済事業に取り組むとともに、津波を防ぐための堤防建設に取り組むことを決意しました。堤防の建設は1855年から開始されました。その建設費用は、梧陵がすべて負担すると紀州藩に申し出ていましたが、1855年の安政江戸地震により江戸の店舗が大損害を蒙ったため、建設資金の調達が困難となりました。しかし、広村の出身者が多い銚子の店では、過去最高の生産高を達成して、合計で約2,000両を広村に送金しました。その結果、1858年に広村堤防は完成しました。この堤防は、その後、1944年の昭和東南海地震や1946年の昭和南海地震の津波に対して効果を発揮しました。

つぎに、2つ目の「防」である「防疫」についてです。江戸時代は、天然痘やコレラなどの感染症が流行していました。わが国での天然痘の流行は、江戸時代までは、数十年の間隔で大流行がおこったが、江戸時代になると、毎年のように流行するようになっていた。長崎で蘭方医学を学んだ三宅艮斎は、梧陵の勧めで1841年に銚子で開業しました。その後、1844年、艮斎は佐倉藩医となって銚子を去ったものの、梧陵との親交は続きました。1858年、天然痘の予防・治療を目的として、江戸在住の蘭方医83名が資金(計約580両)を出し合って「お玉ヶ池種痘所」を開設しました。しかし、同年11月、付近で発生した火災により種痘所は全焼した。三宅艮斎から種痘所再建の窮状を相談された梧陵は、300両を寄付しました。そのお蔭で1859年に種痘所は再建され、その後、「西洋医学所」「医学校」「東京医学校」などと改称をして、現在の「東京大学医学部」に至っています。

1858年、コレラが全国的に流行し、江戸だけで2万人の死者が出ました。このとき江戸にいた梧陵は、銚子の関寛斎に手紙を送りました。関寛斎は、1856年から銚子で開業していた蘭方医で、梧陵に認められ、三宅艮斎以上に親身の援助を受けていました。その手紙の内容は、江戸で大流行しているコレラは、近いうち銚子にも広がると考えられるので、コレラの予防法・治療法を学ぶため、関寛斎に江戸に来るようにというものでした。江戸に来た関寛斎は、梧陵から紹介された蘭方医の林洞海と三宅艮斎から治療法・予防法を学び、薬品・書籍を購入して銚子に戻りました。そのとき銚子でもコレラが流行りつつありましたが、関寛斎の防疫治療により被害を最小限に食い止めることができました。

そして、3つ目の「防」である「防衛」についてです。 江戸時代のわが国は、鎖国政策によって平和な時代を過ごしていました。しかし、18世紀末から日本の近海に異国船が頻繁に現れるようになり、欧米列強による植民地化に対する危機意識が次第に高まっていました。梧陵は、1851年、異国船から広村を守るため、村内の成年男子を集めて「広村崇義団」を結成しました。この当時の梧陵は、やや攘夷的な思想でした。その後、佐久間象山や勝海舟らとの交友を通じて、攘夷論から開国論へと変わりました。開国するためには教育による人材育成を先決すべきとの考えから、1852年、村内の青年たちへの教育事業として「広村稽古場」を開所しました。また、1853年に黒船が来航したときには、鎖国政策の中、海外渡航を熱望したものの断念しました。1859年、勝海舟に咸臨丸への同乗を誘われましたが断念しています。1866年、広村稽古場は耐久社へと改称され、これが現在の和歌山県立耐久高等学校、広川町立耐久中学校に至っています。また、1869年、紀州藩の大広間席学習館知事になりました。

以上で述べた通り、濱口梧陵は、防災面での「安政南海地震の津波からの避難誘導」と「広村堤防の建設」だけでなく、防疫面では「銚子でのコレラ防疫」と「お玉ヶ池種痘所の再建への寄付」、防衛面では「広村崇義団の結成」と「広村稽古場の設立などを通じた教育事業」に取り組んでおり、これらの面でも先駆的かつ卓越した功績をあげていたことを確認できた。これらを踏まえて、濱口梧陵の防災・防疫・防衛面での功績が、1)低頻度・巨大損失事象の体験・教訓の伝承、2)リスクマネジメントとクライシスマネジメント、3)自助・共助・公助の点において危機管理教育における有効な題材となりうると考えられます。なお、上記の内容の詳細については、日本安全教育学会の学術誌「安全教育学研究」第17巻、第1号(2017年)に、原著論文「危機管理教育の教材としてみた濱口梧陵の功績とその再評価」としてまとめましたので、興味のある方はご一読いただければ幸いです。

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