カスハラとは、関係の揺らぎが可視化された経営リスクである。
本連載では、RMCAが開催したセミナーで曽我昌子氏が示した視点を手がかりに、カスハラを顧客対応だけの問題ではなく、従業員、取引先、組織との関係や、経営リスクの問題として考えていきます。
カスハラ対策では、「記録」が重要だと言われます。
いつ、誰から、どのような言動があったのか。
どの部署が受けたのか。
誰が対応したのか。
どのような影響が生じたのか。
その後、どのような対応を取ったのか。
こうした事実を残すことは、もちろん必要です。
暴言、威圧的な言動、過剰な要求、長時間の拘束などがあった場合、記録がなければ、組織として事実を確認し、適切な判断をすることが難しくなります。
従業員を守ることもできません。
同じような事案が繰り返されていても、記録がなければ、それぞれが「その場で起きた個別の問題」として処理されてしまいます。
だから、記録は重要です。
しかし、ここで一つ問いを立てたいと思います。
記録するとは、何を残すことなのでしょうか。
起きた事実だけを残せばよいのでしょうか。
相談内容と対応結果を記入すれば、それで十分なのでしょうか。
カスハラについて相談した従業員は、出来事だけを伝えているわけではありません。
その背後には、恐怖、疲労、不安、怒り、諦め、孤立感があります。
「自分は会社に守られるのだろうか」
「この苦しさを理解してもらえるのだろうか」
「また同じことが起きるのではないか」
「自分の対応が悪かったことにされるのではないか」
そのような思いを抱えながら、相談していることがあります。
だから、組織が記録すべきものは、出来事だけではありません。
その声を、組織はどう受け止めたのか。
何に共感したのか。
どこに問題や違和感があると考えたのか。
何を確認する必要があると判断したのか。
相談した従業員に、どのような言葉を返したのか。
そこまで残して初めて、記録は次の判断に生かせるものになります。
ここでいう「応答」とは、単なる返事ではありません。
「分かりました」
「確認します」
「対応します」
と伝えるだけでは、十分な応答とは言えない場合があります。
応答とは、相手の声を意味のあるものとして受け取り、組織としてどのように向き合うのかを言葉と行動で示すことです。
不安や苦しさを理解したのであれば、そのことを言葉にする。
すぐに結論を出せないのであれば、何を確認し、誰が判断し、いつまでに回答するのかを伝える。
不当な要求であると判断したのであれば、どこに境界線を引き、どのように従業員を守るのかを示す。
そして、その一連の過程を記録する。
この積み重ねが、関係品質を支えます。
前回は、カスハラに近い問題が、BtoCの顧客対応だけでなく、BtoBの取引関係やサプライチェーンにも起こり得ることを考えました。
取引先から違和感を示されたとき。
委託先から、現場の負担が限界に近いと伝えられたとき。
自社の従業員から、「この要求は行き過ぎているのではないか」と声が上がったとき。
その声に、組織はどう応答したでしょうか。
「昔からそうしている」
「この業界では普通だ」
「今さら変えることはできない」
「取引先も分かっているはずだ」
そのような言葉で流してしまえば、声は表面上、消えたように見えます。
しかし、実際には消えていません。
不信として残ります。
諦めとして残ります。
関係の劣化として残ります。
そして、退職、取引停止、内部告発、訴訟、品質低下、インターネット上での批判といった形で、後になって表面化する可能性があります。
記録されなかった声は、組織の中で共有されません。
共有されなければ、次の判断にも生かされません。
応答されなかった声は、関係の中に残り続けます。
だからこそ、記録は単なる証拠保全ではありません。
記録するとは、応答を可視化することです。
従業員や顧客、取引先から届く声は、最初は不安、不満、疲労、怒りといった感情として現れることがあります。
その感情を組織が受け止め、言葉にし、応答すれば、関係を見直すきっかけになります。
さらに、その応答を方針、相談体制、対応基準、教育、業務改善へつなげることができれば、個人の経験を組織の仕組みとして残せます。
ここに、カスハラ対策における記録の意味があります。
カスハラ対策は、強い言葉を使う顧客を排除するためだけのものではありません。
従業員に我慢させないためだけのものでもありません。
届いた声を、組織としてどう受け止めるのか。
どこに境界線を引くのか。
誰が判断するのか。
何を記録し、どのように次へ生かすのか。
その仕組みをつくることです。
この仕組みがなければ、現場は孤立します。
相談を受けた上司が、一人で問題を抱え込む。
担当者が、自分の判断で謝り続ける。
管理職が、顧客と従業員の間で板挟みになる。
経営は、現場で何が起きているのかを知らない。
同じ問題が、別の部署で繰り返される。
この状態では、カスハラ対策は十分に機能しません。
方針を示すだけでは足りません。
相談窓口を設けるだけでも足りません。
マニュアルをつくるだけでも足りません。
必要なのは、届いた声への応答が記録され、必要な人に共有され、次の判断に生かされることです。
例えば、従業員から相談があったとします。
まず、何が起きたのかを確認する。
次に、相談者が何を感じ、何に困っているのかを受け止める。
そのうえで、組織として何を確認するのかを伝える。
誰が判断するのか、どの段階で上司や専門部署へ引き継ぐのかを明確にする。
必要であれば、顧客や取引先に対して境界線を示す。
判断の結果を、相談した従業員に伝える。
さらに、同じことを繰り返さないための改善につなげる。
ここまでが、組織としての応答です。
そして、その一連の過程が記録されていなければ、組織は経験から学ぶことができません。
そのとき、誰が、何を判断したのか。
なぜ、その対応を選んだのか。
ほかの選択肢は検討されたのか。
相談者に、どのような言葉で返したのか。
その後、何を変えたのか。
ここが残っていなければ、次の担当者は学べません。
次の管理職も、判断のよりどころを持てません。
経営も、現場の実態を把握できません。
この一連の記録を、ここでは「応答の履歴」と呼びます。
応答の履歴とは、届いた声をどう受け止め、何を確認し、誰がどのような判断をし、どう伝え、その後何を変えたのかという記録です。
記録とは、過去を保存するためだけのものではありません。
次の応答をよりよくするためのものです。
次の判断を支えるためのものです。
次の関係を壊さないためのものです。
この意味で、記録は企業の責任と深く関わっています。
企業の責任は、すべての要求を受け入れることではありません。
すべての声に、相手の望む形で答えることでもありません。
不当な要求には、明確に境界線を示す必要があります。
しかし、届いた声をなかったことにせず、組織としてどう向き合うのかを決めることはできます。
受け止める。
確認する。
判断する。
伝える。
記録する。
学習する。
この循環がなければ、関係品質は高まりません。
逆に、この循環がある組織では、顧客からの声は単なるクレームではなくなります。
従業員からの相談は、単なるトラブル報告ではなくなります。
取引先から示された違和感は、単なる不満ではなくなります。
それらは、組織が自らの判断、仕組み、関係を見直すための手がかりになります。
応答を可視化すること。
応答の履歴を残すこと。
応答の履歴から、次の判断をつくること。
これは、これからの企業にとって重要な仕組みになるはずです。
ただし、記録を残すことと、すべてを社外に公開することは同じではありません。
社内だけで共有すべき情報もあります。
役職や部署によって、共有範囲を分けるべき情報もあります。
個人情報や機微な内容への配慮も欠かせません。
それでも、組織が届いた声にどう応答したのかを、必要な範囲で残しておくことには大きな意味があります。
どの声を聞いたのか。
どの声を十分に聞けなかったのか。
どの声に理解を示したのか。
どの声に境界線を示したのか。
どの声をきっかけに、何を変えたのか。
その履歴は、組織がステークホルダーとの関係にどう向き合ってきたのかを示します。
カスハラ対策における記録は、単なる管理業務ではありません。
関係の揺らぎに対する、組織の応答を残す行為です。
その応答が積み重なれば、現場の苦労が見えるようになります。
管理職の迷いを共有できます。
経営が判断するための材料になります。
従業員は、組織に守られていると感じられます。
顧客や取引先に示す境界線も、少しずつ明確になります。
その先に、関係品質の向上があります。
次回は、この連載の最終回として、カスハラ対策を経営リスク管理の問題として捉え直します。
方針、相談体制、初期対応、記録、分析、教育、経営への報告。
これらは、単なる法令対応や管理項目ではありません。
現場を守り、関係の揺らぎを早く捉え、企業として判断するための仕組みです。
最終回では、関係品質を守ることが、なぜ経営リスク管理とガバナンスの問題になるのかを考えます。
本稿は、広報人倶楽部のニュースルームで公開した記事を、RMCA読者向けに加筆・再構成したものです。
特定非営利活動法人日本リスクマネジャーアンドコンサルタント協会(RMCA)
理事長 荒木洋二