ここ最近、私が通常利用する交通機関が毎日のように遅れています。列車による人との接触事故というアナウンスを聞くと、苛立ち以前に無常さを感じざるを得ません。コロナ渦によって、人とのリアルな接点が失われたことが拍車を掛けたことは言うまでもありませんが、失われた30年という管理社会という統制がここまで大きく幅を利かせ、生きにくい世の中が築き上げられてしまったことが根っこにあると言わざるを得ません。
自分と向き合うという意識になかなかなれず、他人の言うことばかり気にしてしまう他人軸評価。個性が無視され、結果がすべてモノを言い、手段は問わないという背景が人に無理を強いる、競争社会の過剰な日常が現在のベースラインとなってしまっています。その結果、自分の本心に目を向けることなく人の言うことに自分自身の見解を合わせてしまい、人の言うことが自分の意見としてしまう右へ倣え方式の集団意識形成が出来上がってしまいます。生きがいを知らぬ間に失ってしまったことによる究極の選択が自らの命断ち。程度の差こそあれ、健康上の問題にも大きく問題を引き起こしていることは言わずもがなです。
心の向き合い方として、心の中とはどういう性質があるのでしょうか?ある意味、その時の気持ちに支配されやすい(引き付けられやすい)のが心の性質です。ネガティブな気持ちであればマイナスの方向に引きずられやすく、ポジティブな気持ちであれば前向きなやる気に満ちたプラスの方向に心が誘引されます。他人軸で生きるということは、結果としてどういう心の状態を産むでしょうか?それは自分の心が他人に支配されたということになります。厳しい言い方をするならば、心が奴隷化されたという状態と言えます。
第二次世界大戦が終わり、間もなく80年を迎えようとしている中、一度も日本においては戦争が起きていない平和な時代が続いている、とても自由な時代であると外面には見えるのかもしれません。しかし内面はどうでしょうか?平和な世の中という、終戦後、半ば魂を抜かれ、自分思考回路が抜かれてしまった教育カリキュラムの中で育てられてきた戦後世代は子々孫々代々、その教育枠の中に閉じこめられてきたため、抜け出す発想を起こすこと自体、至難の業です。なぜならば、教育というのは環境要因が大きく占めているからです。偏差値教育の弊害が叫ばれてきたのは、自分軸の大切さに気付きだした人たちの産声の一部でもあるのです。
長年培ってきた習慣はそう簡単には変えられないことと同じで、心の在り方についても積年の癖は拭えないものです。自分軸の心を取り戻す(構築する)にはどうすればよいでしょうか?それは、自分自身の内部の声に耳を傾ける癖をつけることです。自分の心に問いかけ、自分の心がまるで別人であるかの如く接し、素直にその自分の心に意見を聞いてみることが大事です。端的に言えば直感となるのかもしれません。
自分の心を聞くことができるようになれば、次は相手の心に問いかけることができます。自分の心を自分で知ることになればそれは本心となり、その本心を知ることは芯の強さとなって他人に映るからです。信頼の本となり、それがやがて人望となって培われていきます。自分の芯の強さがあると、逆に相手の話をよく聞くことができるようになります。傾聴という単なるテクニック/ノウハウ(形)ではなく、自然と会話の流れで人との信頼関係が出来上がるのです。自分の心を知るからこそ、相手の本心を知ることができる。相手も他人軸の人を信じることができないのと同じです。
ただ、ここで気を付けないといけない点として、相対する人の思考形態、性格に大きく依存することがあります。会う人全員に認められようとすると却ってプレッシャーとなって押し寄せてきます。相対する人が自己中心的な、拘りの強い人である場合、関係性構築の弊害となる場合も多分にあります。ただ、自分軸があると対人関係を全方位で結ぶ必要がないという割り切りができます。
自分軸の心の持ち方を習得できることで、人と相対するストレスを大きく軽減できる、ストレス以上に人と会うことが楽しくなる、そのような気持ちの変化が起きれば運も大きく開けるということに通じるのかもしれません。
㈱シー・クレド
代表取締役 乙守栄一