人は、知識を得れば得るほど、判断が鋭くなると信じている。それ自体は間違いではない。だが同時に、見落とされがちな側面がある。私たちはそれを「慣れ」や「自信」と呼ぶ。だが実態は、思考の省略であり、疑いを差し挟む余地の縮小でもある。賢さが増すほど、世界は理解しやすくなる。理解しやすくなるほど、例外が見えにくくなる。
知識は視野を広げる一方で、視野を固定する。
人間の認知は、空白を嫌う。情報が足りないとき、脳はもっとも“筋の良い物語”で補完してしまう。そこには正常性バイアスが働く。「いつも通りに見えるから、今回もいつも通りだろう」という仮定が、危険信号を弱音に変える。さらに確証バイアスが重なると、自分の仮定に合う情報だけを拾い、合わない違和感をノイズとして捨ててしまう。経験を積み、専門性を高め、同じ領域で成果を出し続けている人ほど、ある種の「型」が出来上がる。その型は、判断を速くし、迷いを減らす。しかしその裏側で、異変に対する感度を鈍らせていく。
ある医療現場での話がある。日常的に行われている手術の最中、術野の状態にわずかな違和感があった。出血の仕方が、いつもとわずかに違う。しかし執刀医はそれを深く追わなかった。「この程度なら問題ない」という経験則が働いたためである。
手は止まらなかった。そして、その違和感はやがて取り返しのつかない結果につながった。
技術の問題ではない。見えていたものを「見ない」と判断した、その一瞬の選択の問題である。
このとき、もし誰かが「一度止めませんか」と言えていたらどうだったか。あるいは、言えたとしても、言葉が届く構造がその場にあったか。専門職の現場ほど、判断が個人の腕前に回収されやすい。だが本来、異変を拾うのは一人の天才ではなく、複数の目と耳である。小さな確認手順や、役割に関係なく違和感を言語化する合図が、最終的な損失を防ぐことがある。
危険が大きい現場では、破綻は突然起きるように見えて、実際には“ゆっくり”進むことが多い。最初は例外対応として許された小さな逸脱が、次第に常態化する。逸脱が繰り返され、何も起きない期間が続くと、それは「危険な近道」ではなく「合理的な手順」に見えてくる。異常が日常に溶けたとき、現場は危険に慣れるのではなく、危険を見分ける目を失っていく。
似た構図は、より大きな現場でも起きている。東海村JCO臨界事故 では、本来は多層的に設けられていた安全手順が、作業の効率化や慣習の中で一つひとつ省かれていった。定められた設備ではなく、バケツやひしゃくを用いた作業が常態化し、「このやり方で問題は起きていない」という経験が、手順の逸脱を正当化していった。やがて臨界に至り、作業員は強い放射線に曝された。現場では、青い光が発せられていたという。ここでもまた、「安全だろう」という前提が、判断を支配していた。
これは特別な話ではない。むしろ、どの現場にも存在する、ごく静かな現象である。
企業の現場でも同じだ。高度な知識を持つ担当者が、「この構成なら問題ない」と判断し、例外的な対応を許容する。その判断に対して、周囲が違和感を口にしても、「理解が足りていない」として退けられる。やがて、その一点が綻びとなる。ここにあるのは、能力の不足ではない。むしろ逆である。能力が高いからこそ、自分の判断に対する疑いが薄れていく。
経験は、判断を助ける。だが同時に、判断を固定する。この構造から逃れることは容易ではない。ただし、いくつかの手立てはある。
ひとつは、自らの判断を一度止めることである。違和感があったとき、それを処理せずに、あえて立ち止まる。その一拍が、流れを変えることがある。
例えば、重要な判断ほど“口頭の自信”ではなく“手順の形”に落とす。短いチェックリストでもよい。確認項目が二つ増えるだけで、思考の飛躍は露出する。あるいは、結論を出す前に「この判断が失敗するとしたら、何が原因か」を先に書き出す。いわゆるプレモータム(事前の反省会)は、未来の事故を過去形で想像することで、盲点を言葉にする。
もうひとつは、自分以外の視点を取り入れることである。特に、専門外の人間の言葉は軽視されがちだが、そこにこそ盲点を突くヒントがある。さらに有効なのは、意図的に反対意見を作ることだ。役職や年次とは別に、あえて「反証を探す係」を置く。いわゆるレッドチームの発想である。結論を支持する材料だけでなく、結論を崩す材料を探す役割が明確になると、違和感は個人の勇気ではなく、プロセスの一部として提出できるようになる。素人の指摘は、時に的外れに見える。しかしその“的外れ”の中に、専門家が前提としてしまっている枠組みの歪みが浮かび上がることがある。
「なぜそうなるのか」「本当にそれでよいのか」
こうした単純な問いが、思い込みを揺らす。
耳を傾けるという行為は、単なるコミュニケーションではない。自らの認識の輪郭を、外側からなぞり直す作業である。知性は、本来、世界を広く捉えるためのものだ。しかしそれが、自分の中で完結した瞬間に、外界との接点を失う。
見えているはずのものが、見えなくなる。聞こえているはずの声が、届かなくなる。
その変化は、静かに進行する。そして気付いたときには、修正が難しい位置にいることも少なくない。
だからこそ、意識して余白を残す必要がある。自分の判断に対する、わずかな疑いの余白を。
知識や経験は、確かに力になる。だがそれを扱うのは、あくまで人である。
そして、その人が最も疑っていないものが、往々にして「自分の判断そのもの」である。
株式会社シー・クレド
代表取締役 乙守 栄一