「品物」という言葉がある。
当たり前のように使っている言葉であるが、改めて考えてみると不思議な言葉である。
単なる「物」であれば、「物」と言えばよい。わざわざ「品」という文字を冠して「品物」と呼ぶところに、日本人の感性の奥深さがあるように思う。
品位、品格、気品、上品。
「品」という文字には、単なる性能や価格を超えた、人間の在り方を表す意味が込められている。
だから「品物」とは、単なる商品ではない。
そこには、人の品が宿っているのである。
先日、ある伝統ある産地の生産者の方と話をする機会があった。
長い歴史を持ち、多くの人から愛されてきた逸品である。その品質については疑いようもなく、日本が世界に誇るべきものであった。
その価値に敬意を払いながら話をしていたのだが、ふとしたやり取りの中で考えさせられることがあった。
人はしばしば、ブランドや歴史そのものに価値があると考えがちである。
しかし、そのブランドを支えているのは何なのだろうか。
百年続く暖簾なのか。
由緒ある産地なのか。
受け継がれてきた技術なのか。
もちろんそれらも大切である。
しかし、それだけではない。
最後にその価値を完成させるのは、そこに関わる人間の品格ではないかと考える。
どれほど名の通ったブランドであろうと、どれほど優れた技術によって生み出された製品であろうと、そこに驕りや慢心が生まれた瞬間、その品は単なる商品へと姿を変えてしまう。
反対に、無名の品であっても、誠実な人が作り、丁寧に届け、感謝をもって扱うならば、そこには自然と品格が宿る。
人は物を買っているようで、実はその向こう側にいる人間を買っている。
料亭の料理もそうである。
高級車もそうである。
老舗の菓子もそうである。
味や性能だけで人は感動するわけではない。
作り手の心遣い。
売り手の真心。
相手に対する敬意。
そうしたものを感じた時、人は「良い品だ」と感じるのである。
茶道の世界には、「和敬清寂」という言葉がある。
和を以て貴しとなし、相手を敬い、清らかな心を持ち、静寂の中に己を置く。
茶そのものの価値以上に、その場に集う人々の心の在り方を大切にする思想である。
考えてみれば、日本人は昔から物に魂が宿ると考えてきた。
八百万の神という考え方もそうである。
針供養があり、人形供養があり、古い道具に感謝する。
単なる道具ではなく、その背後にある人の営みを大切にしてきた民族である。
だからこそ、「品物」という言葉が生まれたのかもしれない。
一流品とは、高価なものを指すのではない。
一流の人間性が形になったものを指すのである。
近年、「ブランド戦略」や「ブランディング」という言葉が盛んに語られる。
ロゴを変える。
宣伝をする。
海外展開を行う。
もちろんそれも必要であろう。
しかし、本当のブランドとは、広告費で作られるものではない。
「あの人たちなら裏切らない」
「この人たちの作るものなら安心だ」
そんな信用の積み重ねこそがブランドなのである。
そして信用の源泉とは、人の品格に他ならない。
「腐っても鯛」という言葉がある。
しかし、歴史や名前に胡坐をかき、他者への敬意を忘れた時、その鯛はもはや鯛ではない。
名産品もまた同じである。
百年の歴史があろうとも、人の品を失えば、その瞬間から品物ではなくなってしまう。
逆に、名もなき一品であっても、そこに誠実さと謙虚さと感謝があれば、人の心を打つ名品となる。
品とは、価格ではない。
名声でもない。
相手を敬う心であり、人としての在り方である。
そして、物の品を決めるのは、結局のところ人の品である。
「品物」という言葉を残した先人たちは、そのことを既に知っていたのかもしれない。
人の品が、物の品になる。
その当たり前のことを忘れた時、どれほどの名品も、ただの物へと成り下がる。
そしてまた、人の品によって、名もなき物は品物へと昇華していくのである。
ブランドを作るのは歴史ではない。
最後の仕上げをするのは、いつの時代も人なのである。
株式会社シー・クレド
代表取締役 乙守 栄一