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第128回 人生は暇つぶしである―荘子『逍遥遊』から考える、運を呼び込む生き方

人は日々、善悪や是非によって物事を判断している。
「あの人は間違っている」「こちらの考えが正しい」「努力は報われるべきである」。こうした価値判断は、人間社会では当たり前のように用いられ、私たちの思考や行動の基準になっている。しかし、その物差しは本当に自然の法則そのものなのだろうか。
私たちは、自分が正しいと思うからこそ相手を説得しようとし、社会を変えようとし、ときには自分自身さえ思いどおりに変えようとする。しかし、人生を振り返ってみると、自分の力ではどうにもならなかった出来事の方が、実は多かったのではないだろうか。
荘子を読み返していると、一つの考えに行き着く。

自然の流れとは、人間の善悪や是非では判断することも、動かすこともできない究極の存在である。
春が来れば花は咲き、秋が来れば葉は散る。雨は善人だけを避けて降ることはなく、風は悪人だけを選んで吹くこともない。海は満ち、やがて引いていく。昼と夜は繰り返され、命は生まれ、そして終わりを迎える。
自然は誰かを評価するために存在しているわけではない。そこには、人間が作り上げた価値基準など存在しないのである。

荘子は、この大いなる自然の働きを「天」や「道」と呼んだ。
ここでいう天とは、人格を持った神ではない。善悪を裁く裁判官でもない。人知を超えた大きな流れそのものであり、宇宙の秩序そのもの(現代的にいえば「サムシング・グレート」と重なるイメージ)である。
そう考えるならば、自然の摂理に従うとは、天の働きに身を委ねることであり、その流れを受け入れることである。

そして、人もまた自然の一部である。
人だけが自然から切り離された特別な存在ではない。喜びも悲しみも、出会いも別れも、成功も失敗も、大きな自然の流れの中で起きている一つの現象なのである。
もちろん、人は考え、努力し、挑戦する。それ自体を荘子は否定しているわけではない。問題は、努力の結果までも自分の意思だけで支配できると思い込むことである。結果に執着した瞬間、人は自然との調和を失い、苦しみを抱え始める。

荘子の第一篇『逍遥遊』には、巨大な魚「鯤」が大鳥「鵬」となり、九万里の大空へ舞い上がる物語が描かれている。
その姿を見た蝉や小鳥は笑う。
「近くの木まで飛べれば十分ではないか。」
しかし鵬は、その言葉に耳を貸さない。
蝉には蝉の世界があり、鵬には鵬の世界がある。どちらが正しいという話ではない。それぞれが、それぞれの自然を生きているだけなのである。
この寓話は、大きな者が小さな者を見下す話ではない。
人は誰もが、自分の経験、自分の常識、自分の価値観という物差しで世界を測ってしまう。しかし、その物差しが絶対である保証はどこにもない。そのことを荘子は静かに問い掛けているのである。

現代社会は、まさにこの「物差しのぶつかり合い」の時代である。
職場では価値観が衝突し、SNSでは正義と正義がぶつかり合う。家庭でも「こうあるべき」という思いがすれ違いを生む。多くの人間関係の悩みは、相手を理解できないことではなく、「相手を自分の物差しに合わせよう」とするところから始まっているように思える。
しかし、相手もまた自然の一部である。
その人には、その人が歩んできた人生があり、その人なりの経験があり、その人なりの価値観がある。それを自分の尺度だけで変えようとするから苦しくなる。
必要なことは伝えればよい。
努力もすればよい。
対話も尽くせばよい。
しかし、結果まで支配しようとしてはならない。
流れに逆らい続ければ、水は濁る。
流れに身を委ねれば、水は自然に澄んでいく。
これは決して諦めではない。
自分にできることと、自分では変えられないことを見極めるという、極めて積極的な生き方なのである。

では、そのように生きる人には、なぜ「運が良い」と感じられる出来事が起こるのだろうか。
私は、運とは偶然訪れるものではなく、自然の流れと調和した人のもとへ集まる現象ではないかと考えている。
流れに逆らい、自分の思いどおりにすべてを動かそうとする人は、目の前に訪れた機会さえ見失う。「こうあるべき」という思いが強すぎると、せっかく巡ってきた縁や偶然を受け止める余裕がなくなるからである。
一方で、肩の力を抜き、その時々にできることを誠実に積み重ねる人は、不思議なほど人との縁に恵まれ、新しい学びや仕事へと導かれていく。
人はそれを「運が良い」と呼ぶ。
しかし実際には、運が特別な人を選んでいるのではない。自然の流れを素直に受け入れられる人ほど、その流れに乗る機会が増えているだけなのかもしれない。
だから運を追い掛ける必要はない。
自らが自然の流れと調和すれば、運は後から静かに寄り添ってくる。

ここで思い浮かぶのが、「人生は暇つぶし」という少し過激な言葉である。
この言葉だけを聞けば、人生には意味がないという虚無主義のようにも聞こえる。しかし、私はそうは思わない。
人生には絶対の正解も、誰もが果たさなければならない唯一の使命もない。
だからこそ、肩肘を張らず、その時々の出会いを味わい、失敗を受け入れ、自然の流れを楽しめばよい。
荘子は「遊」という言葉を大切にした。
それは娯楽ではない。
心を縛る執着から離れ、自然とともに自由に生きることである。
人生は暇つぶし。
だからこそ真剣に遊べばよい。
仕事も、人間関係も、挑戦も、失敗も、その暇つぶしを豊かにする素材にすぎない。
遊ぶとは、無責任に生きることではない。目の前のことに真摯に向き合いながらも、それに自分の人生のすべてを預けないことである。結果に囚われず、過程を味わい、人との縁を楽しみ、今日という一日を丁寧に生きることこそが、荘子のいう「遊」の心境なのではないだろうか。
流れに逆らわず、しかし流されることもなく、自分にできることだけを静かに積み重ねる。
それが荘子の説いた「逍遥遊」の境地であり、現代を生きる私たちが最も忘れかけている生き方ではないだろうか。
人生を重く背負う必要はない。
自然の流れに身を委ね、遊ぶように生きる。
その先にこそ、人が本当に求めていた「運」と「自由」は静かに待っているのである。

株式会社シー・クレド
代表取締役 乙守 栄一

 

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