悔いを残す、現世に未練を残す、色んな想いが巡るとこのような表現が脳裏に浮かぶことがあります。人生を最期にしたときの心境をどう顧みるか、時の英雄“織田信長”が本能寺の変の折、映画やドラマの放映の一シーンでもある“人間五十年、下天(化天)の内をくらふれハ、夢幻の如く也”という敦盛の舞を舞う局面があります。ある人の解釈によれば、信長は後悔のない人生を生き切った、と解釈する人もいます。戦国時代という戦に明け暮れる時代、下剋上もありえる人間を人間として完全に信頼できる時代ではない中、時には寺社の焼き討ちなど、残忍なことを行なってきたと言われながらも、時代を駆け抜け、全国統一を果たしたまさしく英雄と言えなくもありません。
この信長の心境に想いを寄せたとき、一つのことが思い浮かびます。一つの時代を生き切った、と。時に時代に身を任せながらも、時に英断を下しつつ、権威を高めていった人生。他の武将に比べ、自然と付き随う大名が多かったようにも感じます。明智光秀の裏切りをどう捉えるかはまた、本論とは大きく外れますのでここでは割愛しますが、一つの人生を生き切るモデルとして、織田信長は今の世に大きなヒントを与えている気がしてなりません。
なぜ、人は妬むのでしょうか?心の奥底に潜むこの嫉妬心。片や、成功したときに起きやすい慢心。必ずや衝突が起きるときの伏線として、人とヒトとの関係が発生すると、このような心に纏わる問題が要因のケースが多々あります。
心の揺れ動き、雑念も時として湧いてくる中で、脳裏をハンドリングする心の動きは自分自身が“自分”という人間を知る以外に対処することができません。何億、何兆という一つひとつの細胞が合わさって形成されている自分の“命”、それこそ“魂”と一対と言える関係性のものです。命と魂が離れる瞬間、それが“死”という場面になります。
命と魂が一対となって形成される“自分”という肉体。お腹が空けば食事をとり、疲れが堪ると睡眠を取りたくなる、排せつ行為も日々の営みに付いてくる、肉体があるが故の縛られている“魂”。ある種、命があること自体が不自由であり、肉体という殻に閉じ込められた奴隷と化した“魂”と言えなくもありません。人は言います、自由なる奴隷。まさしく生きているだけでこの縛り。この縛られた“魂”と“肉体”とが一体化した“自分”という存在が、悔いのないように全うするために、生きている期間、何を目標にするか?その先にある目的、すなわち“夢”をどう定めるか?ここに大きなヒントが隠されています。
他人と自分を比較してしまう、その結果優劣に対して一喜一憂してしまう、まさに先ほどの嫉妬心と慢心の温床です。この心の揺れ動きが何千、何万と生じてしまう時のエネルギー、しかも負のオーラが混ざっているときの動きは途轍もなく大きなものです。
この心の問題にアプローチしたものが、心理学であり社会学、そして哲学であり、さらには宗教まで、非常に範囲は広いものです。その中で日々生きている人生そのものを修行と捉える考え方もあり、リアルに実践している形が見えるのが、現世とはかけ離れ、黙々とこなすお寺や修道院での日々の生活でしょうか。その生活の中から心の揺らぎと日々向き合い、葛藤し、冷静な自分を見つけ、時間をかけて自分なりの答えを見つける、それすなわち悟りの境地に達するまでの一連の活動、それが修行です。
自分とはどういう存在か、その存在の理論を明らかにしたもの、それが1981年にノーベル生理医学賞を受賞したロジャース・ペリーの“分離脳”に関する研究です。この分離脳とは左脳は右脳の代替はできないということを証明したもので、この右脳型・左脳型のうち、自分はどの型なのかを診断できる“脳認知科学”に応用した研究が今、現存します。自分とはどういう性格で、何に興味があり、何が得意かという顕在的な面だけでなく、素養として育ってきた環境により、潜在的にある特殊な要素が潜んでいる、そちらの方面を伸ばすことでさらに良い人生を送ることができる、という個人の人生に対するベストエフォートな解を提供できる理論・診断ツールになります。
修行を通じて自分という心の実態について時間をかけて把握する、それも立派なアプローチです。しかし、このご時世、技術の進化がとめどなくスピードを上げているものの、心の感じ方のスピードはそう簡単には上がるものではありません。生身の人間、心の感じ方のスピードを上げるとそれだけでストレスフルな状況に陥ってしまいます。長い時間をかけて自分を知る理論とアプローチ、それが最短でわかるのであればその得られた結果を起点として、人生の目標であり、目的・夢に気づくということもあり得るのではないでしょうか。現代版、悔いなき人生を全うするアプローチ、技術は既にニーズに応え出しています。
京都府立医科大学特任教授
株式会社シー・クレド代表取締役
乙守 栄一