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第69回 偽善者の本質と生きるべきリスク対策

偽善者というと、あまり良いイメージを思い浮かべません。善いことをしているにもかかわらず、何か裏に別な意図を持っているのではないかと、疑念を生じてしまうケースが多々あります。

NHKドラマ「大地の子」での1シーン、戦前の混乱期に満州の地で引き上げではぐれた一人の少年が、小屋の暗がりで病に臥せっていました。そこに現地の初老の男性が、「お腹が空いたか?何か食べさせてやろう」と連れていき、食事をたらふく食べさせている傍らで、この少年を実際に幾らで売買するか商談をしているシーンがありました。明らかにこの少年を商材としての価値を見出したが故の善行(空腹を満たしてあげる)です。これは非常にわかりやすい偽善者としての例です。

しかし、逆に偽善者かどうかの見極めが非常に付きにくいケースも見受けられます。それは善行を行なった相手から見返りを期待して行なう行為です。善行を享受する立場で物事を見たとき、相手がどういう心境で自分に対して善行を行なってくれたのか?その意図を測りかねるケースが非常に多いです。善行に対して何も見返りがないとした場合、恩知らずであると愚痴をこぼす人も出てくるでしょう。量で測る場合、たったこれだけのリターンしかないの?と不服に感じるケースが出てくる人が大半だと思われます。わらしべ長者的なことは早々、発生はしません。ビジネスの局面では、折衝という行為の中でお互いの落としどころを見つけ、契約にこぎ着けるため、善行、偽善という概念は表にはあまり出難いのかもしれません。

偽善者のパターンは幾つか存在しますが、往々にして偽善者の本質とは何なのか?二つのケースに分けられます。裏で悪を行ない、表で善を行なう人。次に自分の欲のために善をする人。ここの本質をどう見極めるかですが、正直なところ、厳密に言えば人間は偽善者だらけです。

人間は次から次に襲う煩悩に苦しめられるといいます。この煩悩が襲ってくることで、頭の中に欲が芽生え、それによって善を行なうことが結果として偽善行為となります。禅の世界では偽善の行為を“毒”と表現しています。善の行為が大きければ大きいほど、毒も強いと表現されています。では、このような毒にまみれた人間、世間ばかりであるならば、どう対処していけばよいでしょうか。

善は善として行なっていけばよい、ということです。どう足掻いたところで煩悩は付きまといます。自分自身で本当に心が美しいと思うならば、その心持で善を行なうことです。人が自分をどう解釈しようが、気にすることなく自分を信じ、貫くことです。日頃の善行為(功徳)はちょっとした事の積み重ねとも言います。

メジャーリーガー大谷翔平選手が球場内のごみ拾いを心がけているということが話題になっています。これも功徳の一つです。人によってはこの行為一つとっても非難する人は存在するでしょう。万人が万人、良いようには捉えることはありません。人は人、どう自分に伝わろうが一切気にせず、自分自身の信念で信じた通り、功徳を積む。これそのものが善の行為としていけば、わかる人には伝わるというものです。一方で、善行為をするだけではなく、自分自身が善の行為を受けることもあります。どうしても、魂胆が丸見えになっている時もあります。そのような時は自分自身の考えでもってお断りするということも理に適っています。善の行為を受けることでは必ず謝意を示すことはどのような場においても、人間関係の構築においては最低条件です。常日頃の感謝は一つひとつの行為に対して気配り、心配りの結果ともなります。ぜひとも自ら進んで行なう善行為と感謝の慣行によって、リスクの発生確率が薄まっていく世の中を目指したいものです。

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