産業法務の視点から
平川 博氏
1.EBMとは
「看護職のEBM」というサイトの「EBM(Evidence Based Medicine:根拠に基づいた医療)」 (最終更新2015年9月23日)と題するウェブページでは、以下のように記載されています。
EBM、根拠に基づいた医療という言葉は、カナダはマクマスター大学のGordon Guyatt(1953-)が1991年に用いたのが始まりです。
当初は「科学的医療(Scienticfic medicine)」と呼ぼうとしていたそうですが、猛烈な反対によってEBMになったようです。…(中略)…
一般的に「医学」というのは”科学”を代表する学問であるとされているのに、…(中略)…たったの20数年前の1991年に「科学的医療」というものを推し進めようとしたというのは、非常に面白いと思います。
それまでの医療がどれほど”科学的でなかったか”を物語っていますよね。そんな非科学的な医療から脱却しようと「EBM」という言葉ができたわけです。
そしてもう一人、Guyattと共に活躍した「EBMの父」と呼ばれるDavid Sackett(1934–2015)という人物がいます。そのSackettはEBMを、「個々の患者の医療判断の決定に、最新最善の根拠を良心的かつ明確に、思慮深く利用すること」であると非常に明確に述べています。
(https://e-kangosyoku.jimdo.com/はじめに/ebmとは-その①/)
2.EBMの位置づけ
純真学園大学の伊藤教授(英史保健医療科学部医療工学科)が執筆した「『医療は科学的であるのか』についての哲学的考察」(『純真学園大学雑誌』第6号[平成29年3月]53頁以下)と題する論文の「要旨」として、以下のように記載されています。
EBM(Evidence-based medicine)とは「科学的根拠に基づいた医療」とされている。現代の西洋医学は科学技術至上主義・科学偏重主義などと言われることもあるが、一方では補完・代替・伝統医療などとよばれ哲学的・宗教的・芸術的に包括的な医療が全人的医療として注目されている。
本論文では「医療は本当に科学的であると言えるのか」について哲学的考察を試みた。医療を医学よりも包括的な概念として捉えると、EBM は医療全体を指し示すのではなく医療の一体系であると考えられ,医療は科学的要素も含むがそれが全てではなく,そのほかの哲学的・精神的・宗教的な疑似科学に分類されるような領域をも統合的に含めて医療と考える必要がある。
この論文の冒頭(【序】)では、「現代の西洋医学は科学技術至上主義・科学偏重主義等と言われることもあるが、一方では補完・代替・伝統医療などと呼ばれ哲学的・宗教的・芸術的に包括的な医療が全人的医療としてクローズアップされてきている。『科学的根拠』に基づいた医療が良い医療で,基づいていない医療がよくない医療という風潮は、実際には意味を持つようで意味をもたないように感じる。なぜなら,『科学的根拠』があれば正しい医療で完全に完治するといわれても十分に納得のいくものではない」と記載されており、EBM偏重の風潮に警鐘を鳴らしています。
このような観点から見て、EBMは迷信のような非科学的医療を排除することにメリットがある反面、医療の普遍的妥当性を裏付けるものではないと言えるでしょう。
3.EBMの真髄
東京北医療センター総合診療科医長である南郷栄医師の「The SPELL blog」というブログサイトで掲示されている「いま再び正しくEBMを」(2018年5月18日最終更新)と題する記事では、以下のように記載されています。
これまで、EBMはさまざまな誤解を受けてきた。…(中略)…特に多いのは,「EBMに基づいた◯◯診療ガイドライン」という表現に象徴される、EBMとエビデンスの混同である。
本来のEBMは、目の前の患者における問題解決の手法である.患者が抱える問題を定式化し(step 1)、問題の解決につながる情報を収集し(step 2)、得られた情報を批判的吟味し(step 3)、吟味した情報を目の前の患者に適用できるか判断し(step 4)、step 4までが適切に行われたか、step 4の判断で患者が幸せになったかを振り返る(step 5)、という5つの手順で考える。忙しくルーチン化された日常診療では、エビデンスがアップデートされていることを知らずに過ごしがちだが、ふとした疑問を問題として捉え、EBMの手順で見直してみることが重要である。
EBMで最も重要なのは、step 4の情報の患者への適用である。ある治療法や検査法が有効であるというエビデンスがあったからといって、それらを全ての患者に用いねばならないわけではない。有効な治療法でもあえて使わない選択肢も認めるべきであるし、実際にそうしている場面も多い。
(http://spell.umin.jp/thespellblog/?p=99)
4.EBMの限界
名古屋市のはざま医院HPで掲載されている「EBMと実地医療」(『名古屋内科医会会誌』Nov.15 No.112[2002年]p45-55)と題する講演録(平成14年6月8日に名古屋市医師会館で名郷直樹医師【当時は南設楽郡作手村国民健康保険診療所所長】が「関節炎の診断」テーマにEBMに基づく診断法について行った講演の記録)では、「5. EBMの限界」という見出しの下に、以下のように記載されています。
EBMの作業を行うとEvidenceを得たのだから、必ず一定の方針が定まると読者の方々は思うかも知れないが、それは実は全く逆なのである。シナリオの症例【引用者註:「表2 患者シナリオ」参照】の場合でもEBMのプロセスを通して分かることは、確率100%の確定診断は全く得られない、あるいは確率0%の否定診断も得られないということである。診断基準を満たしてある疾患であるかのように思えても、実は例えば痛風の場合、66%が痛風であるに過ぎない。あるいは、穿刺液で尿酸結晶陰性という結果であっても、痛風の可能性が22%も残っていて、全く痛風の否定ができない。つまり何だかよく分からない状況で治療へと進まないといけない。そしてEBMを通してよく分からない状況が明らかになると言うことなのである.さらに大切なことは、よく分からない状況で目の前の患者にどのように医療をするかと言うことは、Evidenceが決めるのではなくその個別の患者に向き合っている私達自信が患者と交渉しながら決める以外にないと言うことを、実はEBMが明らかにしているのではないだろうかと言うことである。
表2 患者シナリオ ・50歳男性,昨日より右膝の痛みと腫れがあり来院 ・検診で尿糖を指摘されたことがあるが放置している ・2年前にも同様な右膝の痛みを経験しているが,市販の痛み止めで4~5日で軽快している |
(http://www.hazamaiin.com/publications_EBM_pracical_medicine.html)
この講演録は15年以上も前のものですが、現代の医療でも通じる重要な論点を衝いているように思われます。それは「医学は科学なのか?」という極めて難しい問題です。
5.医学と科学
科学とは一定の法則を確立することであるという観点から見れば、医学は科学であると思われる場合と、そうでないように思われる場合があります。それは人体の反応が、物理や化学で扱う自然現象とは違って、必ずしも一定していないからです。
先ず診断に関しては、臨床検査の精度が問題であり、基本的には「陽性と判定されるべきものを正しく陽性と判定する確率」(平たく言えば、疾患ありを見逃さない)という感度と、「陰性のものを正しく陰性と判定する確率」(平たく言えば、疾患なしを無暗に疑わない)という特異性という2つの指標があります。いずれの指標でも真偽不明な領域があり、偽陽性や偽陰性を排除することができません。そこで真陽性と真陰性と偽陽性や偽陰性を識別して精度を高めるために、適合度(適合率)という指標が用いられます。また診断基準というものも、確定診断をする上で重要な参考情報ではありますが、機械的に当てはめれば分かるというほど単純なものではないことは言うまでもないでしょう。
次に治療に関しては、例えば二人の肺がん患者が同じ抗がん剤の投与を受けても、一方は快方に向かい、他方は悪化することがあります。遺伝や体質、体調等、患者ごとに異なる情報を総合して、それぞれに適した治療を施すことが望まれます。診断と治療は密接な関係があって、両者合わせて一言で診療と言いますが、診断が確定しても、それだけで治療法が決まるわけではありません。
また臓器移植を機械の部品交換に例えることがありますが、他人の臓器は免疫機能により異物として認識されるために、拒絶反応が起きます。近年は再生医療の技術が向上しているので、今後は臓器移植が再生医療に代わることを期待したいものです。
6.結語
迷信のような非科学的要素や医師の主観的な誤診を排除する上でEBMが重要な役割を果たして来ましたが、普及するにつれて、医学を物理・化学のような自然科学と同列に扱い、客観的な測定数値に依拠する診療が持て囃されるところまで来ると、機械論に陥る危険性が高まります。これがEBMの限界であり、これを弁えて、真に患者本位の医療を推進することが望まれます。