私は「大義」とは、敢えて善悪を決めつけない義であると捉えている。
一見すると逆説的に響くかもしれない。歴史的に「大義」とは「大きな正義」と訳され、国家や組織の旗印として掲げられてきた。しかし、現代のようにリスクが多層的に絡み合う社会では、「唯一の正義」を強く打ち出すことが新たなリスクを生む。だからこそ「敢えて善悪を決めつけない義」と再定義することが、リスクマネジメントの実務において有効に働くのではないかと考える。
正義の光と影
正義は秩序を与える。サイバーセキュリティの徹底、BCPの策定、コンプライアンス遵守――いずれも現代組織にとっての「正義」である。しかし、正義には必ず光と影がある。
セキュリティ強化を正義とすれば、利便性や業務効率は犠牲になる。多要素認証や厳格なアクセス管理は有効だが、業務のスピードを鈍らせ、現場で迂回行為(シャドーIT)を誘発する場合もある。逆に利便性を正義とすれば、セキュリティリスクが拡大し、重大な事故につながりかねない。
BCPの領域でも同じだ。冗長化や多重化を徹底すれば「強靱な体制」を得られるが、過剰投資で経営資源を圧迫し、本業の競争力を削ぐリスクがある。一方で効率性を重視しすぎれば、災害や障害に直面した際の復旧力が著しく低下する。つまり正義を突き詰めれば、その裏側に新たな脆弱性が必ず生まれる。
サイバーセキュリティにおける大義
サイバーセキュリティ対策は「強化こそ正義」と捉えられがちだ。だが大義の視点に立てば、単に強化に走ることが必ずしも最適ではないことが見えてくる。
例えば、セキュリティインシデント対応の現場においては、正義の立場では「原因追及」と「責任の明確化」が最優先となる。だが過度にこれを強調すると、現場は萎縮し、情報共有が遅れ、かえって被害が拡大する。大義の立場では、「なぜ報告が遅れたのか」「どのような環境なら迅速に情報が上がるのか」といった組織文化や仕組みの改善に目を向ける。ここでは善悪の裁定よりも、全体最適を実現する義が働く。
また、クラウド利用における責任分担も同様だ。利用者側は利便性を、提供者側はセキュリティを正義として主張する。しかし大義の視点を持てば、SLAや監査証跡を通じて双方がリスクを共有し、相互に調整していく枠組みが求められる。ここでも「どちらの正義が勝つか」ではなく「両者が共存するための義」を意識することが重要になる。
BCPにおける大義
BCPでも同じ構造が見える。災害対策においては、しばしば「冗長化こそ正義」とされる。しかし、全システムを二重化し、データセンターを遠隔地に複数構えることは理想的であっても、コスト的に現実的ではない。経営資源を圧迫すれば、本業の競争力を損ない、長期的には組織を弱体化させる。
逆に「コスト削減」を正義とし、バックアップ体制を最低限に抑えれば、いざ災害や障害が発生したときに致命的な機能不全に陥ってしまう。大義の視点に立てば、この両極の「正義」をそのまま採用するのではなく、リスクシナリオを洗い出し、復旧時間目標(RTO)や復旧ポイント目標(RPO)を定め、それに見合った投資水準を設計することになる。つまり、大義は善悪ではなく「調整と最適化」の基準となる。
サプライチェーンリスクでも同様である。コスト効率化を正義として一極集中すれば平時には強いが、有事には脆弱だ。レジリエンス確保を正義として分散すれば有事には強いが、平時のコストは増大する。ここでも大義の視点は、どちらかを善悪で裁くのではなく、ハイブリッドな戦略を組み合わせて「最適解」を描くことを促す。
大義を実務に活かす
こうして見ると、大義の再定義は単なる哲学的議論にとどまらず、実務に直結していると云える。サイバーセキュリティとBCPは、いずれも「正義」と「正義」が衝突する領域である。どちらか一方を善とし、他方を悪とすれば、必ずリスクが顕在化する。大義とは、その二元論を超えて調整し、全体最適を探る枠組みである。
この「大義の視点」を組織に根付かせるためには、経営層と現場が共通のリスク言語を持ち、対話を重ねることは欠かすことはできない。セキュリティ強化も、冗長化も、どちらも善悪の問題ではなく「調和のための(身の丈に合った)選択」である。その意識が浸透してこそ、持続可能なリスクマネジメントが可能になる。
結びにかえて
正義は秩序を与えるが、同時に分断を生む。大義はその対立を包摂し、調和と持続性をもたらす。サイバーセキュリティとBCPはいずれも、正義の旗印が衝突しやすい領域である。だからこそ「敢えて善悪を決めつけない義」という大義の再定義は、我々にとって不可欠な視点となる。
光と影を同時に見つめ、正義の二元論を超えて全体最適を探る――その営みこそが、これからのリスクマネジメント実務を支える基盤となるのではないだろうか。
株式会社 シー・クレド
代表取締役 乙守栄一