正義を語るとき、その根拠を示す場合が往々にして存在する。しかし、この正義がすべてにわたって善いこととは全く限らない。
では、正義とは何か?それは時代や文化、個人の価値観によって大きく変容する概念である。正義は法、道徳、社会的規範の中に散りばめられているが、これらが必ずしも一致するとは限らない。ある社会において正義とされる行為が、別の社会では不正や犯罪とみなされる場合もある。このように正義は固定された絶対的なものではなく、むしろ相対的かつ流動的な性質を持つ。歴史は勝者が作る、ということもその一理かもしれない。
さらに、正義はしばしば力の関係に左右される。強者が「正義」を定義し、それを社会に押し付ける場合、弱者の声はかき消され、真の公平さは失われる危険がある。例えば、強烈なインパクトのある口調で正義をまくし立てる人が政治家の発言や商品の宣伝、場合によっては宗教法人の教祖など、立場や人からの優位性を鑑みたとき、誰もが盲目的に信じてしまう恐ろしさがある。したがって、正義を追求する際には、それが誰の利益に寄与しているのかを慎重に吟味する必要がある。
正義とは理念のように捉えられる一方で、実践においてはしばしば葛藤や矛盾を伴う。すべての人に平等であることを目指しながら、ある人にとっての正義が他者を傷つける結果を招くこともある。このような複雑さを抱える正義は、問い続け、議論し続ける永遠のテーマと言えるだろう。
正義は公理ではない、という事実にも気づかなければならない。論理展開が必ずあり、その展開の複雑さに、耳を貸す人たちの思考回路が付いていくことができるか、ここが大きなカギを握る。ここが出来なければただただ妄信するばかりになってしまう。
一方で、文化レベルの違いによって、地域間によって正義の捉え方が根本的に異なるというケースもある。日本は天照大神という自然崇拝を信仰とする流れがあり、和をもって貴しとなす文化がある一方、西洋では、古代より剣や盾などを持つ肖像画が多いことからもわかる通り、殺戮を繰り返してきた歴史があり、力こそ全てだという風潮がある。歴史の流れそのものが今の時代に移ってきていることから考える不思議に見えることがある。西洋のように力で征服するという見方の地域では災害発生といった異常時には、店舗から我先に物品を奪い去っていくことが繰り返されている常態がある一方、日本では食料の配給などにもきっちり並んで待っているという行為そのものが不思議に感じられ、賞賛される海外報道などはその顕著な例と考えられる。古代インカ帝国がスペインからの征服に意図せずして屈したことも、権力に傾倒する西洋の思想が根底にあったことの裏返しなのかもしれない。
では、正義が人により、国により捉え方が違うならばどのようにして自分自身の考え方の軸を置くべきなのか?それは大義をもって考えるに如かず、ということになるのではないかと考える。
大義という概念は正義とは異なる側面を持つ。正義が時代や文化に左右され、相対的な流動性を伴っているのに対し、大義はより普遍的で永続的な理念として捉えられることが多い。大義は、個人の欲望や利害を超越し、広い視野から人類や社会全体の利益を追求する目標を掲げる。これは、自己犠牲や利己的ではない貢献を含むことがあり、しばしば人々の行動の指針となる。
大義の強さは、その根底にある哲学や信念に依存する。例えば、歴史的には多くの改革運動や革命が大義の名の下に実現された。これらの運動は、自身の利益ではなく社会全体や未来世代の幸福を目的としていた。大義はそのため、短期的な視点にとどまらないという特徴がある。真の大義は時々の外的要因に揺るがされることなく、人々の考え方の軸を根本から変える力を持つ。
また、大義を追求する過程では個々の価値観や文化的背景の違いによる葛藤が生じることもある。しかし、これらの違いを乗り越え、共通の目標に向かうことで、個人やコミュニティの成長が促される。そして、大義を中心に据えた行動は、他者との連帯や理解を深める基盤となり得る。
大義はしばしば人々にとって道しるべとなるが、それをただ盲目的に受け入れるのではなく、その理念を吟味し、自らの内面で深く咀嚼することが重要である。それにより、大義は一過性の流行や感情的な衝動ではなく、長期的な価値を持つものとなるだろう。正義の相対性が時に混乱を招く可能性がある一方で、大義はそのような混乱を乗り越え、人々をぶれない考え方へと導く光となる。
普遍的リスク対策の根本は大義にあり、この言葉をもって当文面を締めたいと考える。
株式会社シー・クレド
代表取締役 乙守 栄一