現代社会において、判断や意思決定が「ゼロか一か」で下される場面が増えている。これは西洋思想、とくに論理学や数学的合理主義に根差す構造であり、ある意味で効率的かつ明快な判断基準を提供してきた。しかし同時に、それは「善か悪か」のような道徳的判断と必ずしも一致しないという重大なリスクを孕んでいる。
判断とは本来、複雑な文脈と多様な価値観を踏まえたうえで行われるべきものである。それにもかかわらず、善悪の価値基準までもが「成功か失敗か」「勝者か敗者か」といった単純な二元論にすり替えられてしまえば、結果だけが正義として語られ、過程や倫理が置き去りにされる。この傾向は特に、歴史記述やメディア報道に顕著である。歴史は勝者によって語られ、勝者はしばしば「正しかった」とされる。しかし、勝った者が道徳的に正しいとは限らない。そこにこそ、私たちが見落としてはならないリスクがある。ここには人間本来の思考能力そのものが、インターネット等の発達により数多くの情報に晒されすぎたが故に、人間脳の処理能力が追い付かなくなり、思考すべきポイントにおいて「判断の余白」を奪ってしまったことも背景としてあることを忘れてはならない。
ここで想起されるのが、イマヌエル・カントの倫理思想である。カントは、「善」は結果にではなく、動機と意志に宿ると説いた。彼の定言命法(Categorical Imperative)において、「あなたの行為が普遍的法則として妥当しうるか」を問うことは、まさにこの「見えにくい善」を判断するための軸となる。つまり、「誰かが成功したか」「どれだけ支持されたか」といった結果ではなく、その行為が人間の尊厳を守り、他者を手段としてではなく目的として扱ったか――この倫理軸を忘れたとき、社会は大きな道徳的リスクに晒される。
現代の日本政治、とくに2025年参議院選挙を取り巻く状況にも、この構図は当てはまる。国民民主党や参政党のような勢力の台頭は、オールドメディアではなくSNSによる情報流通の多様化が影響している。情報の民主化は喜ばしい反面、アルゴリズムやエコーチェンバーによる「バイアスの増幅」という新たなリスクも生んでいる。影響力がある、ステータスが高いというだけで、その発言が無批判に信じられ、「善」とされてしまう風潮は極めて危険である。声の大きい人、弁の立つ人に圧倒され、結果その人の言う論が正しい、と判断してしまうことと近いのかもしれない。
今私たちに必要なのは、「誰が言ったか」ではなく「何を言っているか」「その背後にある意図や倫理は何か」を見抜く力であり、それを養うためには教育や対話を通じた道徳的判断力の涵養が不可欠である。カント的視点を借りれば、道徳法則は外部から与えられるものではなく、理性によって自律的に導き出されるべきものであり、それが「普遍的リスク対策」の一環となる。
リスクとは、単なる物理的・金銭的損失のことではない。社会が道徳的に退化し、「正しさ」が一部の権力者や扇動的な声によってねじ曲げられることも、深刻なリスクである。こうした倫理的リスクに対し、私たちはどのような備えをするべきか。それはまず、「ゼロか一か」で切り捨てられる世界から脱却し、多様性と複雑性を内包する「判断の余白」を尊重する姿勢から始まる。
情報があふれ、善悪の境界があいまいになりつつある現代。だからこそ、あえて道徳的判断を中心に据えた社会づくりに貢献したい。個人が正しい情報をつかみ、思考し、主体的に「善」を選び取る。それこそが、持続可能で安定した社会に必要な「普遍的リスク対策」なのである。
今こそ、善悪を考えることをあきらめない社会へ――あなたも共に考えませんか。
株式会社シー・クレド
代表取締役 乙守 栄一