リスク政策
千葉科学大学危機管理学部危機管理システム学科 五十嵐信彦 著
総選挙が終わり、小池東京都知事が率いる希望の党は極めて無残な敗北を喫しました。その原因はさまざま指摘されていますが、その一つには、小池知事、希望の党の露骨な大衆迎合的な政治姿勢にあったのではないかと考えています。
その顕著な例は、小池都政の最重要課題とされた、築地市場の豊洲への移転問題でした。すでに建設を終え、移転を実施するばかりとなっていた豊洲市場について、土壌が汚染されているから安心できないとして、移転計画を止め、事実上「ゼロリスク」を求めて出口を見失う結果となってしまいました。大衆の不安を掻き立てて自らの支持へとつなげる手法は古今東西多くの例がありますが、それは決して政治の王道ではありません。「ゼロリスク」の要求は一見耳当たりが良く、そうした「扇動」の手段としてよく用いられます。
もちろん、リスクがゼロなのに越したことはありません。ただ、現実の政策展開にそれを求めるのは理性的な態度ではありません。健康リスクを冷静に評価し、リスクの大きさに応じて対策を決めるのが当たり前です。危機管理やリスクマネジメントについて日頃から意識している人にとっては豊洲移転をめぐる迷走はまさに噴飯ものだったことでしょう。
予防原則(precautionary principle)
ゼロリスク論とイコールではないのですが、私が勉強している環境法・政策の世界では「予防原則」(precautionary principle)が政策決定にあたっての一つの基本的概念となっています。
予防原則とは、環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす物質や活動に対し、それが環境への損害と結びつける科学的証明が不確実でも、環境への悪影響を防止するために規制措置を可能にする制度や考え方等と言われます。
一般にはその物質や活動と環境への影響について科学的な証明が十分になされていないケースにおいて、科学的証明の不十分さによって容易に採りうる対策を延期すべきではないというものですが、極端な論者になると、「容易に採りうる対策」だけでなくすべての対策を講じるべきだと言う議論にもなります。ハザードが大きければ、因果関係や発生確率等は考慮せずに規制措置を行うべきという点で、上記の豊洲の例と共通する思考です。
なお、「予防原則」は、科学的な根拠を前提として予見されるリスクを生じさせないよう予め対応策を講じるべきであるとする「未然防止原則」とは区別される概念です。両者は学術的には区別されていますが、実際に政策として実施される場合には区別は曖昧で一括して「予防的措置」と考えられています。
国際環境法と予防原則
「予防原則」が最初に登場したのは、1970年代のヨーロッパでした。その背景には、当時ヨーロッパで問題となっていた酸性雨や北海の海洋汚染等があったと言われています。
その後1980 年代以降国際的に盛んに議論されるようになり、国際協定や各国の国内法及び政策の中に取り入れられてきました。そして、1992 年の『環境と開発に関するリオ宣言第15原則』において、「予防的取組方法」がその規定されたことを契機として、「予防原則」等の「予防的措置」に関する国際協定の規定は一気に増加しました。
『リオ宣言』は、法的拘束力こそありませんが、「予防原則」に関する考え方を比較的具体的に示しています。『リオ宣言』第15原則には「環境を保護するため、予防的方策は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きい対策を延期する理由として使われてはならない。」と記されており、①現科学的不確実性を前提としていること ②深刻なまたは不可逆的な被害のおそれがある場合を想定していること ③この二つの条件の下で、科学的な知見の欠如を理由として費用対効果が大きい対策を実施しないという判断を下してはならないとしています。これは、現在に至るまで、国際的に最も広く合意されている「予防原則」という考え方の基礎となっています。そして『リオ宣言』をはじめとして、『国連気候変動枠組み条約』や『生物多様性条約』その他の国際条約等にも取り入れられ、国際環境法の分野では国際条約等を通じ、一定の規範となっています。
「予防原則」が一般化した理由としては、日本の水俣病、欧米でのHIV感染やBSE問題等対策が後手に回ったことで被害が大きくなった事例の積み重ねや気候変動問題、遺伝子組換え食品の登場などの不確実性が大きい問題の出現、そしてその根底には、既存のリスク評価・管理手法に対する不信感や急速に進歩する現代の科学への不安があったと言われています。
我が国の環境法政策における予防原則
日本国内においては、『リオ宣言』の翌年に成立した我が国の『環境基本法』では、直接「予防」に言及した記述はありませんが、第4条において、「環境の保全は、(中略)科学的知見の充実の下に環境の保全上の支障が未然に防がれることを旨として、行わなければならない。」と科学的知見について一定の留保を行いつつ、予防の観点からの政策手段を用いるよう規定されました。
そして、2000年に定められた『第2次環境基本計画』では、環境政策の指針となる4つの考え方の一つとして、「予防的な方策」を定めています。本文では「環境問題の中には、科学的知見が十分に蓄積されていないことなどから、発生の仕組みの解明や影響の予測が必ずしも十分に行われていないが、長期間にわたる極めて深刻な影響あるいは不可逆的な影響をもたらすおそれが指摘されている問題があります。このような問題については、完全な科学的証拠が欠如していることを対策を延期する理由とはせず、科学的知見の充実に努めながら、必要に応じ、予防的な方策を講じます。」と記述され、①対象となる対策を費用対効果の高い対策に限定していないこと、②対策の延期の理由としないだけでなく、必要な場合は予防的な対策を講じることを明記していること、の2点で、『リオ宣言』よりも積極的に「予防原則」を含む予防的な取り組みを目指しています。
また、東日本大震災の翌年に閣議決定された『第4次環境基本計画』では、「東日本大震災以降、リスク評価と予防的な取組方法の考え方は、防災の観点だけでなく、環境政策においてもその重要性が再認識され、「今後、できる限り科学的知見に基づく客観的なリスク評価を行いながら、『環境リスク』や『予防的取組方法』の考え方を活用し、政策を推進していくことが重要である」と、予防原則を含む予防的措置の重要性の高まりを宣言しています。
これからの環境政策と予防原則
このように、「予防原則」は我が国の環境法・政策の中で重要な考え方となっており、実際の政策形成にあたっても適切に用いられてきたと思います。
一方で、「予防原則」には、1998年に発表された『予防原則に関するウイングスプレッド宣言』(訳文は後記)のように、科学への不信を根拠に、科学的なリスクアセスメントの実施やリスク削減策における費用対効果の検討もせず、「疑わしきは禁止」とするような極端な立場が主張されたり、非関税障壁として貿易問題となったり、科学的に十分でないない予防的措置が他のリスクを発生させたりと言った問題点も指摘されます。特に、食品衛生や環境、原子力といった一般の消費者が敏感なテーマについては度を越したアジテーションは問題です。
来年春に閣議決定が予定されている『第5次環境基本計画』では「環境・経済・社会の統合的向上」すなわち環境問題をその周辺問題と総合的に対処しようというコンセプトが示されています。であるとすると、予防原則もこれまで以上に幅広い分野に適用される可能性があります。
今後、一定の不確実性がある中で政策決定を行わなければならないケースは益々増えるでしょう。特に、環境問題の裾野が広がり、他の政策分野との協調が必要なる場合に「予防原則」を適用するに当たっては、さまざまなステークホルダーとのコミュニケーションが欠かせません。政策決定者は十分に説明責任を果たし社会的コンセンサスを得るべきであると同時に、予防的措置を実施した結果に関するフォローアップを十分に行う必要があります。また、可能な限り、科学的知見の充実に努め、客観的なリスク評価を行なうという原点を忘れることなく、「環境リスク」や「予防的取組方法」の考え方を適切に活用して政策を推進していくことが重要です。