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千葉科学大学 千葉科学大学 危機管理学部 教職課程教授 上北 彰 著
福沢諭吉は明治17年に時事新報の社説で 福沢諭吉は明治17年に時事新報の社説で「政事と教育とを分離すべし」と警告している(村井実『新・教育学の展望』東洋館出版社)。つまりこれは、「『教育』は、国土の開発・整備や、産業・経済の振興、福祉の充実等の『政事』、つまり統治上の様々な物的条件に関わることがらとは違って、人間としての国民が他を人間として『よくしよう』とする、人間の「心の養い」に関わる自律の働きであるから、その働きをいかに大切に守り育てて振興を図るかが、『統治』にあたる『政治』の任務である」(前掲書)ということになる。 村井は「教育」を「子どもを『よく』しようとはたらきかけること」であると定義しているが、この「よく」するということを私なりに言い換えれば、学校の危機管理、教員の危機管理および、発達の段階に応じた子どもの危機管理を慎重に実行し、あわせて子ども自身の危機管理能力を育てる教育、すなわち「自立・自律支援」の教育を実践するということになる。子どもは、その発達段階に応じて現れる課題(リスク)を克服することで成長するとも言われる。したがって、この「教育」は、大人(親、学校、教師)が子どもにとってのリスク(課題)を十分検証し、慎重にマネージメントすることによって、時にはリスクと対峙させ、子ども自身のリスク対応能力を高めようとする、リスク政策的働きかけ、とは言えないだろうか。教科指導や生活指導も、このような視点で再認識してみたらどうであろう。 「政治」は明治維新以降「教育」を国の危機管理として位置づけてきた。それは前回述べたとおり戦後になっても変わっていない。特に近年では、リスクの検証も十分行わずに教育改革を次々と実行し、教育現場を混乱させている。この現状を考えると、国は誰のリスクを考えて行っているのか疑問を持たざるを得ない。「国は子どもが安心して、安全に教育を受けられる環境を整えることにのみ政策を立てれば良い。何をどう教えるかということばかりを率先して管理しようとすることは、『教育』の本来の意味を危うくする(自立・自律を損なう)恐れがある。」と言えるのではないだろうか。すなわち、政治と教育を混一すること(「政教混一」;福沢諭吉の言葉)が、大きなリスクとなると考えられるのである。 そもそも「教育」はリスクを伴うものである。「教育そのものがすでに本来的にリスクを内在させている」のである(石戸教嗣『リスクとしての教育』世界思想社)。「教育」を受ければ「安全・安心」という考えを改める必要がある。どんなに「よく」しようと働きかけても、誰もが認めるような成果を上げられるとは限らないし、それで必ず「よく」なるという保証も付けられない。そんなことができるなら、誰もが大リーガーのイチローになれるはずであろう。どんなに教授法を工夫しても、「喉の渇いていない馬を水辺に連れて行って水を飲ませる」ことは難しい。無理をすれば馬は暴れだすであろう(現実に暴れだしている)。このリスクを引き受けたうえで教育政策を考えることが重要なのではないか。 確かに「教育」は国の危機管理を担う重要な役割を担ってはいるが、政策としてかかわるべき内容は前述したように、「子どもが少しでも自立・自律に向けて、安心して、安全に教育を受けられるような環境を整える」ことに重点を置くべきではないか。「よい」教師がいて、「よい」教育が行われる、そんな「よい」学校さえ整備されれば、子どもたちは個々に「よい」人間に成長し、結果として国の危機管理に資する人材となるはずである。それこそが国のリスク政策になるのではないだろうか。「教育は百年の計」の本来の意味はここにあるように思えるのである。 なお、ここでは国のリスク政策と教育の問題を考えてみたが、実は教育現場における「学級経営」「学校経営」においても同様のことが当てはまるのではないかということを最後に付け加えておきたい。